もし、私たちの生きる世界が、オリンピックに出場するような超一流のアスリートにあわせて設計されていたら、ほぼすべての人たちにとって大きな障害です。そして、その環境に適応できるごく一握りの人たちを除いては、総じて「障害者」になります。
「『障害』は社会の側にある」という言葉があります。上記のような社会は仮定でしかありませんが、たとえばこんな事例はどうでしょうか。私はもともと視力がよかったのですが、今ではかなり悪くなってしまいました。裸眼では車の運転ができないどころか、徒歩で外出するのも怖いです。おそらく、知り合いにすれ違ったとしても、1m以内でなければわからないと思います(それでもボヤけて見えます)。日常生活を送るには困難ばかりです。それでも「視覚障害者」と呼ばれることはありません。なぜなら、「眼鏡をかけたり、コンタクトレンズをつければ、大きな困難なく過ごせる」からです。
それと同じように、たとえば、段差をなくしてスロープにする、誰でも使用しやすい多目的トイレをつくる、安全面に配慮して駅にホームドアを設置するなど、「バリアフリー(障壁のない状態)」の考え方に基づいた空間が広がり、多くの人たちの困難を取り除くことができれば、「障害」も軽減あるいは克服できるはずです。
そんなことを考えながらまわりを見渡してみると、最寄り駅の富士川駅にはエレベーターがありません。また、駅の目の前を通る旧国道1号線に歩道橋はあれど横断歩道はありません。足腰に不安がある方にとっては大きな障害です。しかし、それは一例に過ぎず、市内にはそのような箇所がたくさんあります。「『障害』は社会の側にある」というレンズを通して、今一度、身近な生活を見直そうと思います。
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