今週は始まりのとき。私は教員時代、この時期が大好きでした。新入生の初々しい姿、春休みを終えてまた少し大人っぽくなった在校生の姿。何より、春の暖かな陽気となんとも形容しがたい香りや空気感が心地よく、気持ちを後押ししてくれました。この4月は、高校を卒業した子たちが一人暮らしをスタートさせたり、大学を卒業して社会人になったりする様子を見かけては、ちょっとした寂しさと、今後の活躍への期待感を抱き、親心のような心境でした。
さて、皆さんは学校にどのような思い出がありますか。私自身は、友達や先生に恵まれていたと感じていますし、行事や部活動にも一生懸命に取り組んでいたので、充実していたように思います。ただ、楽しかったこともあれば、辛く悲しかったこともあり、今でもよく覚えています。
私は「学校は我慢の連続、上手くいかないことの連続」だと考えています。とかく、人付き合いはその最たるもので、担任も、教科担当も、クラスメイトも選ぶことはできず、気が合わない人たちとも同じ時間を共有しなければなりません。だからこそ、「みんなで仲良くしましょう」という趣旨の発言を一度もしたことはありません。もちろん、それが理想ではあります。しかし、そのかわりに、「お互いを尊重し合いながら、傷つけることなく、上手く付き合える距離感を見つけよう」との言葉を投げかけてきました。
平田オリザさんという劇作家の方がいます。彼は演劇を通じたコミュニケーション教育を全国各地の学校で展開しており、著書多数、小説『幕が上がる』が映画化されたことでも有名です。実際に講演会を聞いたことがあるのですが、非常に軽快で話の引き出しが多く、たくさんの気付きをいただきました。著書『わかりあえないことから』には、次のような一文があります。
心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。
前者に立つ場合には、その前提条件ゆえに「心からわかりあえなければコミュニケ―ションではない」という解を導き出してしまう恐れがあります。その一方で、後者は「わかりあえない」を前提にしながらも、共感できる部分を見つけ、すり合わせながら、他者との関係性を構築していくことにつながります。
人それぞれ考え方や価値観は違います。しかし、だからといって一人で生きることはできず、多かれ少なかれ他人との関係性を持ちながら社会生活を送っています。人間関係の希薄化が叫ばれている現代社会ですが、「わかりあえない」で立ち止まらずに、「わかりあえないことから」どうするのかに気持ちを向けられる自分でありたいと思っています。
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